盲目の爺さんの家に忍び込んで大金をちょろまかそうとした三人の若者。しかし、爺さんは元軍人で殺しのスペシャリストだったからさぁ大変…。決して音を立ててはいけない、という設定化の中で繰り広げられる命を懸けた逃亡劇を描いた2016年を代表するホラー映画の一本。
■設定の勝利
まず、その家では決して音を立ててはいけない、という設定でかなりこの作品は映画としての特性を見事につかんで、面白くなる可能性が大きく高まっていると感じる。
盲目になってしまった元軍人。目が見えないゆえに聴覚が人一倍研ぎ澄まされるおかげでちょっとした足音、扉の擦れる音、そして呼吸音すらも察知し、軍人ならではの射撃術で音の鳴った方向へ間髪入れず拳銃をぶっ放す。誰の目から見ても「音を立てたら死ぬ」ということが簡潔に、かつ見事にセッティングされた。
そして、映画館で観たならばこの映画はいくつものシーンで無音になる。もちろん観客も息を潜めているわけだから劇場は無音に包まれる。ここまでは他のホラー映画でも結構ある。しかし、この映画では一緒に息すらも止めてしまうような緊張感が演出と、そしてタイトルによって体感させるという正に映画館でこそ真価を発揮するホラー映画だった。
※ここからネタバレあり
■そこにないもので見えてくる
とまぁ、まずは設定だけでかなり心を惹かれて観に行ったらもちろんべらぼうに怖かったわけですが、この映画かなり美術や演出が素晴らしいとも感じた。
まずヒロインの紹介の仕方。ヒロインのロッキーが旦那と別れたショックで廃人カウントダウンの母と、ロッキーの妹と家にいるシーンがある。そこでロッキーは妹の汚れた顔を吹く時に自分の唾で拭く。しかも慣れた手つきで。もうこれだけでこの家の母親の役割はロッキーが担っており、母親の元にいたらこの妹はダメになるだろうってことがサラリと描かれている。ゆえにラストシーン、二人で空港から新しい生活に出発しても、残された母親のことを後味悪く感じるノイズは入りにくくもなっている。
そして、問題のお爺さんの家!ここの美術がまぁ素晴らしかった。なぜなら本来あるべきものをなくしてお爺さんの人となりを表現しているからだ。
普通、その人の性格や人となりを知ろうとする場合、家だったら置いてあるもので「あぁ、この人の趣味はこれなんだ」とか「洋服が好きなんだ」とそこにあるもので推測するのが普通だと思う。
しかし、この家の場合は逆で“あるはずのものがない”ことによってお爺さんが盲目であること、そして信念もわかるよう演出されている。
まず、家には十字架がない。いや、正しく言えば今はない、ということになっている。お爺さんの寝室のベッドの上の壁をよく見ると十字架型の痕跡が残っているのが確認できる。そこには痕跡だけで、十字架は下げられていない。痕跡があるということから推測するに、長い間飾っていたが、何らかのキッカケで外したと推測できる。そして映画の終盤、お爺さん自身の口から「神などいない」と語られる。恐らく、元々はちゃんとキリスト教の神を信じていたにも関わらず、娘の事故や自身に降りかかった災難などを通し、「神がいるならばこんな酷い仕打ちがあってたまるものか」と信仰を捨てたことを、飾られていない十字架と、その痕跡で表現している。
また、地下室での真っ暗闇での鬼ごっこの時も素晴らしかった。お爺さんがヒロインと、仲間のアレックスを追いかけている時に、流れるように棚にある扇風機のプロペラや、天井を通っているパイプを触っているシーンがあるけれど、多分彼は自分のいる場所をあれで把握しているのだろうね。「あぁ、ここにプロペラがあって、ちょっと先にパイプ…今二列目と三列目の間か…」といったようにね。
そうそう、あとチラッとだけど地下室の棚には本が積まれているんだよね。ここで大事なのは並べているのでなく、積み上げられていること。つまり、読むことを目的とした陳列の仕方じゃなく、物として保管しているだけの状態。当然盲目になのになぜ本が?と思うが、恐らく彼はもともと本を読む人だったんだろう。それを捨てたり燃やしたりせず、地下室に物として保管している。それは彼は二度と読むことはできないけれど、誰かが、つまり彼の子供がいつか読むのかも知れないといういうことでそこに保管していたのではないか…と考えてしまうのだ。
ほんと触れだすとキリがないんだけど最後に一つだけ。家の中にはさかさまになったままのお爺さんの娘の写真が置いてある。逆さまのまま額縁に入れて飾って置くなんてことはまずしない。その人が盲目でなければ。そして、それを正しい方向に戻してあげる人がいなければ、間違った方向で写真は飾られ続けるだろう。つまり、長い間この家を尋ねる人はいなかったんだろうね。
■上手い引用
ここからはこの映画がオマージュ、引用、影響を受けたであろう他作品について。
まずデヴィット・フィンチャー監督の『パニック・ルーム』。ツイッターではただ『パニック・ルーム』の有名なオープニング・タイトルを写真で載せて説明をしなかったが、その意味はこの映画のエンドクレジットの出し方が似ているということだ。
また、『パニック・ルーム』からの引用はそこだけじゃない。『ドント・ブリーズ』でお爺さんの家の様子を長回しでどんな間取りで、どのような部屋があるのか、物が置いてあるのかを映すシーンがあるが、あれは『パニック・ルーム』で主人公たちの家に泥棒が忍び込もうとするシーンからインスパイアされたようだ。
他にも大きい影響なのは『サイコ』だ。これはヒロイン、ロッキーの置かれている状況下はかなりこの映画を参考にしているらしい。というのも両作品とも金を盗むという犯罪を犯した後ろめたさを抱えながら、もっととんでもない犯罪を犯している者に襲われるという状況で一致している。お金を持ち出す原因も今の生活から抜け出して、新しい街で新生活を送るためであるということも一緒。フェデ・アルバレス自身もそのことは認めており、「ヒッチコックはそのような主人公をセッティングすることによって結末を予想しにくくさせている。誰が生きるに値し、誰が死ぬべきなのかをね」と述べている。
参考記事URL
あぁ、後ツイッターで見かけたのですが、確かに『ジョーズ』もありそうだ。お爺さんの動きがサメッぽいということもわかるのだが、お爺さんの目が白く濁っていることが『ジョーズ』のブルースこと鮫の目を想起させる。また、何度も有名な「めまいショット」を使っている辺り『ジョーズ』からの影響も考えうる。
他にも『クジョー』『羊たちの沈黙』などもまず間違いないかと。それは両作品を観ていたらわかるはずだ。
■最後のひと言
この映画について調べていたら興味深いネタがあったのでそれを最後にご紹介。
このヒロインと一緒に泥棒をするアレックスとマネー。二人は全く正反対の性格で、アレックス君は法律の知識もあって良心的な判断がまだでき、ロッキーが一線を越えるのを止めるよう諭す人物。
一方、マネーはガンガン悪いことを悪びれもなく余計なことまで調子に乗ってしまう悪い行いを平気でやる人物だ。
彼ら二人はヒロイン:ロッキーの天使と悪魔のような存在ではないのか?という考え方だ。
よく漫画とかアニメで登場人物の肩の上に、天使の格好と悪魔の格好をしたキャラが出てきて迷わせるギャグがある。あれはキリスト教の考え方が元になっていて、それは「右の肩(Right)には天使がささやき、左の肩からは悪魔がささやく」という伝承から生まれた表現だ。
それでアレックスは天使、マネーは悪魔を表現しているとの考え方は彼らの死ぬときの立っている場所が補完する。
マネーが死ぬときはロッキーの左肩側にいる時で、アレックスが死ぬときは右肩側にいるときにともにお爺さんに銃に撃たれて死ぬから、というものだ。
この考えに則るとこの家には神も、天使も悪魔も死んだということになる。しかし、最後ロッキーを救うのは赤いてんとう虫だった。
目の見えない者の脅威から逃れる最後のチャンスをくれたのは、目には見えない何者かの力だったのかもしれないね。