先日、映画好きが集まって映画の話をする集まりに参加してきました。街をブラブラしている時に見つけたカフェで、こたつが設備されており、映画に関する本や雑誌を中心とした書籍、大量の映画パンフレットも楽しめる。これはいいカフェを見つけたなとウキウキ気分で会計をする際に店員さんからそのイベントの案内を受けました。
たまには知らない人と映画の話をするのもいいかなと思って参加することにしました。バンクーバーで生活している時はこのような集まりに行っていたのですが、日本ではあまり足を運んだことがなかったのでこちらでもやってみようかしらと。
当日、開場時間になったので会場に行くと四人の男性が既に席について映画の話を語り合っていました。どうやら彼らは常連さんみたい。最近観た映画についてあれが面白かった、楽しめたなどの会話に花を咲かせていました。年代は三十代から六十代でしょう。私は新参者なのでとりあえず大人しくしておいて、話を振られたら当たり障りのない話をして開始時間まで時間を潰しました。
今回のトークテーマは「映画の好きなシーン」。私は『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』にて、エオウィンの“I am no man”を選んでいました。もうそろそろ始まる時間になった際に進行役の店員さんが「もう一人来られると思うのでお待ちください」と言い、常連の一人が「おじさんが来るから待っていてね」と私と今日初めて参加する女性の方に言いました。ちょっとこの頃から嫌な予感がしていました。
時間になって現れたのは六十代の男性。席に着くなり、持参したMac PCを広げて「店員さん、はじめちゃって」と指示を促す。あれっ、この人も一参加者じゃないの?なのにどうして偉そうにしているのか。どうやらその男性は常連中の常連、この集まりが始まった当初からすべて参加しているという男性でした。
これはやっちゃったかな…。この辺りで胸のざわつきが半分を超えていました。
■出席者達の「映画の好きなシーン」
まず自己紹介をしましょうと、店員さんが進行して一通り終わった後に本題である「映画の好きなシーン」について順番に話し始めました。結論から言うと、ほぼ一人を除いて面白くなかったです。
とある常連男性は『今夜、ロマンス劇場で』という映画を紹介し、私は未見なのでどんな面白いシーンがあるのかと聞き耳を清ましていたら「実はこの映画に出ている誰々と知り合いでさ。彼がこんな役で出てんの。知り合いがこんな感じで現れたら笑っちゃうよ」とのこと。
まず貴方の知り合いである俳優さんが一生懸命お仕事されている姿をこのような形で紹介することがドン引き要素です。その役者さんは別に知り合いだけにウケてもらおうとコミカルな役をやっている訳では決してないし、彼と知り合いじゃなくても楽しい場面になるようスタッフ、キャストと共に作り上げようとしている至極当たり前のお仕事されている。なのにこの紹介の仕方は酷い。なにより、有名人と知り合いである自分をひけらかそうとしてチョイスしたのが見え見えでした。
一番酷いなと思ったのは、この会の重鎮である六十代のじじいです。彼は常連男性の一人に「決めてきてないから、何か適当に作品挙げてよ。なんでも俺、言えるから」と偉そうに指示。この会のテーマは事前にちゃんと知らせがあったのに全く用意していないし、他人に選ばせて「自分はどんな映画でも説明できますよ」という最新のコンドームよりも薄い見栄を張っているこの感じ。
「ダメだ。この集まりは私が来るべき場所じゃない」とこの時確信しました。その大御所野郎が話に選んでもらったのは『プライベート・ライアン』。一応はどんな話をするか注意を向けていたら、全く大差ない話。この映画のここ台詞が好きで、私にとって大事なものだからこれまでしたスピーチの際に一度だけしか使っていない。恐らく人生の中で後一回使うだろうという最高にどうでもいい自分語りを宣った。挙句「この年(1999年)のアカデミー賞はこれです。私が許可します」などと珍言まで放つ。確かに『恋に落ちたシェイクスピア』がアカデミー作品賞を受賞したことに対して色々と意見が飛び交いましたが、何をもってこの男性がそんな偉そうにアカデミー賞自体に「許可」するかが理解の範疇を超えていました。
『スター・ウォーズ』シリーズに関しても文句を垂れて、「スター・ウォーズは4561だけを観て、後は見なくていい」と今日参加して『スター・ウォーズ』を一作も観ていない人に言う始末。『スター・ウォーズ』は人それぞれ強い意見を持ちやすいシリーズですので、各々が好きなものと嫌いなものが明確にわかれやすいのは理解できますが、それをここでいう必要性は全くないです。私にとって“ただ年を一番召している方”に対しての不信感が強まる材料にしかなりませんでした。
唯一、感心したお話をされたのが今回初参加の女性でした。彼女は『ラ・ラ・ランド』のオープニングのミュージカルシーンを選びました。理由は「ここで楽しそうに元気に踊っていたり演奏したりしている彼らはこの後の映画に出てきません。恐らく彼らはハリウッドやショービジネス界に夢を持ってやってくるも、後に敗れ、人知れず去っていった人々のように見えるから」でした。見事な解釈。これが正解かどうかは関係なく、好きな映画を観ている時に自分の中で浮かんだ考えという正しい解釈かどうかに囚われない別の真実味がありました。好きというのも多様な顔を持っていますが、私は彼女の『ラ・ラ・ランド』に対して向ける好きという静かに漂う熱が紛れもない感じで、とても良かったです。
■年功序列の嫌な側面
一通り、皆がテーマに沿って話した後、初参加の女性から今まであまり洋画を観ていないのでオススメの洋画を教えて下さいというリクエストがあったので常連メンバーが考えて一人が挙げたのが『ライフ・イズ・ビューティフル』。これは笑えるし、ドラマチックだし、世間からも評価が高くとてもいいチョイスだと感じました。しかし次の男性が言ったのがジャン・ルノワールの『ゲームの規則』。理由は昨日観てとても面白かったから。
私はまかり間違ってもあまり映画を観たことのない方に90年前のフランス映画を勧めたりはしない。なぜならここはフランス映画史の授業でもなんでもないからです。そこに案の定勘違いさんが間に挟まってジャン・ルノワールの蘊蓄を吐き出したのちに「『ゲームの規則』はフランスのサイレント映画で…ところでサイレント映画ってわかる?」とその若い女性に聞いていたがもう流石に間違いを訂正させてもらいました。「『ゲームの規則』はサイレント映画ではありませんよ」と私が言ったら「この時期なんだから一緒のようなものだ」と自分の間違いを指摘した私が間違っているような態度を取られました。
年功序列という制度があります。特にこれは東アジア圏で重視される考え方で、社会、家族、サークルなどのコミュニティで発生する今なお根強い風習です。私もこの中で生きているのである程度は従いますよ。年相応に経験を積まれたり、含蓄深い方もいらっしゃいますからね。しかし、このような趣味の集まりにまでこれを目にすると一気に冷める。
若い奴は年長者の言う事にとやかくいうのは野暮みたいなあの空気です。
ここでもそれ気にしなきゃダメなの?と。過去にも脚本を勉強する学校に通っていた時もなぜか長く在籍している人たちが偉そうな態度を取っているのが鼻についてムカムカした覚えがあったのですが、それを思い出させる連中でした。
■なぜ数値化したがるの?
案の定といいますか、彼らには観た映画の本数を誇示する習性がありました。年間数百本観るだとか、生涯ウン千本観たとか。こうゆうことを口に出す人の映画の話は十中八九つまらない。これは映画ファンだけではなく、映画評論家やライター、映画コメンテーター(って結局何?)にも当てはまります。観た本数をカウントすることが悪い訳じゃないです。それを見せびらかす行為がどこかさもしいんです。なぜだかこれは映画を趣味にする方々に蔓延する因習です。「今年ゲーム20本クリアした」「年間漫画1000冊読みます」「アニメ50シリーズ必ず観る」とかいう方はあまり見かけません。恐らくいらっしゃるのでしょうが、映画が特に多い。あと本も。
私が言いたいのは、なぜ自分の好きという気持ちを数値化しないと気が済まないのであろうかという事です。繰り返しになりますが、自分でカウントには何の問題もないです。ただその行為が「自分はこれだけ観ているんだぞ」というマウントの材料にしている感じが凄く嫌なのです。何かを数字で表現する時に付随するのは「何かと比較する」ことです。これは数字の非常に便利な性質です。具体的にどっちが上か下かを図る強い武器になります。ただ、感情というものはそれを超えた所にあります。貴方より私の方が映画のことが好きだ。なぜなら多く観ているからなんて言う阿保はまずいないでしょうが、多く観ているから私の方がスゴイ、映画について知っている、語れる!と勘違いされている人は決して少なくないです。
寧ろ、映画をそんなにたくさん見てきてその仕上がりなの?という自分でも嫌な気持ちになります。映画をたくさん観たからと云って人格や行いが良くなることには甚だ懐疑的ですが、それでも数千本の映画たちは貴方たちに何かを悟らせたり、日々の行動や他人に対する接し方などを教えてくれなかったの?と切ない気持ちになります。もしかしたら普段の生活だったら凄くいい性格の方かもしれません。ただ、このような会合でそんな態度を取られたらもう多方面で関わるのは難しいです。なぜなら皆が各々好きなことを話して楽しもうという趣味の場で他人にナイスな態度を取れないことは、残念な趣味の結果だなぁと私は思わざるえないです。
正直な話、映画を数千本数万本観ようが大差ないですよ。それぞれの作品を自分の見てきた作品の内の“一”という数字にして、映画好きとして足場を固める材料に過ぎないように扱っている内は。いっそ観た本数コンテストでもすればいいんじゃないかと。
私は年間数百本観る人よりも、同じ映画を覚えていないぐらい繰り返し観ちゃったという人の話の方が興味を持ちます。なぜならその人の好きには私の想像を超えたどうかしているモノが潜んでいる気がするから。是非それをちょっとお裾分けしてくれないかなぁと興味をそそられます。
私もこれまでどれだけの本数映画を観てきたを大事にカウントした時期が正直ありました。高校生の時ですけど。ある時ふっとそれはどうでもよくなりました。数字にも、言葉にもできないぐらい好きという感情が私の映画に対する映画への気持ちで、それがずっと続いてくれればそれでいいやと気づいたからです。
■最後のひと事
その会の終わり、老害の男性が「最近知り合いが発行した雑誌があるから皆買うように。私も映画について書きました」と宣伝したので後日その雑誌を読みました。その男性は若い人に観るべき映画と云うことで幾つかの作品を挙げていた中に『第三の男』について記していました。
概要を述べると「この映画を観て面白さがわからない人間は一生映画から離れた方がいい。なぜなら映画を楽しめる能力が貴方にはないからだ」。
私はそっとページを閉じて、本を元の棚に戻し、一生その会に行くのを辞めることにしました。
こんな人の映画の話、聞かなくても私の映画ライフに微塵も影響ないでしょうから。